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【二代目社長・事業承継】理不尽な地獄が磨いた鉄工所二代目の“共鳴”経営術|有限会社サカノ 坂野允耶

4月15日
読了時間: 7分

更新日:3 時間前

数字を追わず「人」を追う、泥臭くも温かな生存戦略



有限会社サカノ 代表取締役 坂野允耶さん


大阪の町工場がひしめくエリアで、数名の従業員を率いる一人の男がいる。 有限会社サカノの代表取締役、坂野允耶氏。


彼の会社には、売上目標という概念が一切存在しない。 それでも、業績は着実に、右肩上がりで伸び続けている。


その温かな人柄からは想像もつかないが、彼の経営哲学の根底にあるのは、かつて身を置いた「理不尽な地獄」での経験だ。 絶望を味わい、家業に戻ってからも「二代目」という重圧と消滅しかけた売上に直面。


泥まみれになりながら、彼は一体何を掴み取ったのか。

「数字」ではなく「人」を大切にする、一人の元野球青年の魂の記録である。



スタンドで培った「縁の下の力持ち」という哲学

《長野》:本日はよろしくお願いいたします。 坂野さんは学生時代、ずっと野球をされていたとお聞きしました。


《坂野さん》:はい、小学校のときからずっとやってました。 高校は強豪校で近畿大会まで行ったりしたんです。 ただ、僕はレギュラーではなくて、スタンドで応援団長をやっていました。


《長野》:応援団長ですか! 強豪校の応援をまとめ上げるのは、並大抵のことではありませんよね。


《坂野さん》:いや、僕は決して器用なリーダータイプじゃないんです。 ただ、不器用なりに練習だけはやり切ろうと決めていました。 寮がなかったので、朝は誰よりも早く起きて500スイング、週末は1000スイングと自分にノルマを課して。 新チームになったとき「このままでは終われない、爪痕を残したい」と思い、練習中も一番声を出していました。


《長野》:そのがむしゃらな姿勢が、周囲の心に響いたんですね。


《坂野さん》:そうかもしれませんね。 自然とみんなが「応援は坂野に任せよう」と言ってくれるようになって。 後輩を連れて室内練習場にこもったり、引退後もみんなの連絡係をやったり。 自分が引っ張るというよりは、一緒に汗を流して「縁の下の力持ち」になるのが自分の役割なんだと、当時から感じていました。


《長野》:今の経営スタイルにも通じる、大切な原点ですね。



絶望の教員時代。「絶対にこんな人間にはならない」という誓い

《長野》:その後、母校で教員をされていたとお聞きしましたが、そこでの経験が今の価値観に繋がっているとか。


《坂野さん》:はい。恩師に憧れて目指した道でしたが、そこは想像を絶する「理不尽な地獄」でした。 パワハラやモラハラが日常茶飯事の、強固な縦社会。 毎日、朝から晩まで怒鳴られ、精神的に極限まで追い込まれていました。


車を運転しながら「このまま交差点を曲がらずに、どこかへ逃げてしまおうか」と本気で思うほどで。 親も、僕が無事に帰ってくるのを毎日起きて待ってくれていたくらいです。


《長野》:それは……本当にお辛い日々でしたね。


《坂野さん》:当時は本当にもがき苦しみました。 でも、あの地獄があったからこそ、今の僕がある。 あの環境で僕が強く誓ったのは「絶対に、人の痛みがわからない人間にはならない」ということでした。


人の痛みを無視できるから、あんな残酷なことができる。 僕は逆に、他人の痛みを自分のことのように捉えられる人間でいよう。 その決意は、今の従業員への接し方の根底に流れています。



二代目の重圧と危機。深夜二時まで泥まみれで掴んだ信頼

《長野》:26歳で家業に入られた際も、すぐに大きな壁にぶつかったそうですね。


《坂野さん》:はい。戻ってすぐに大きな危機に直面しました。 売上の半分を占めていた水道管の仕事が、素材の変化という時代の波で「ゼロ」になることが決まったんです。 親からは「これがあるから食っていける」と言われていたのに、いきなり足場が崩れました。


《長野》:それは相当なプレッシャーだったはずです。


《坂野さん》:さらに「二代目だから甘やかされている」となめられたくなくて、誰よりも働きました。 朝一番に出社してトイレ掃除を済ませ、独学で機械のプログラムを勉強して。 2、3年目からは、朝6時に起きて、深夜1時、2時までひたすら働く毎日。 一ヶ月休みなしも珍しくありませんでした。 でも、その圧倒的な「量」をこなすことで、お客様の信頼を少しずつ勝ち取っていったんです。



「餅は餅屋」。地域の仲間と手を取り合う生存戦略

《長野》:先代であるお父様とぶつかることも多かったとか。


《坂野さん》:ええ、喧嘩ばかりでした(笑)。 父は「今までこれでいけた」と言いますが、現場の精度は年々厳しくなっています。 僕は「今はもうあかんねん!」と力説して。

まずは現場を守る母を味方に付け、少しずつ父を説得し、モノ作りの方向性を変えていきました。 今思えば、あれも一つの「戦い」でしたね。


《長野》:そして33歳で社長に就任。そこでの戦略が非常に理にかなっていますね。


《坂野さん》:自社だけで全てをやろうとするのはやめました。 鉄工所の世界には、旋盤やフライスなどそれぞれの専門分野があります。 無理に拡大するのではなく、うちは得意な「面」の加工を極め、他は信頼できる地域の仲間に任せる。


「餅は餅屋」でタッグを組み、地域全体を一つの大きな工場のように捉える。 それが、僕たちのような小さな会社が、激動の時代に生き残るための最も誠実な道だと思ったんです。



数字は追わない。ただ「人」の期待に応え続ける

《長野》:新しく入ってくる仲間に伝えたいことはありますか。


《坂野さん》:うちは従業員に売上目標を一切課しません。 数字を追うと、どうしても儲からない仕事を切り捨ててしまう。 でも、困っているお客様の期待に応え続けていれば、お金は必ず後からついてきます。 実際に、そうやってうちは着実に成長してきました。


《長野》:数字ではなく、目の前の「信頼」を積み上げているのですね。


《坂野さん》:だから、新しい子にはプレッシャーを感じてほしくない。 お昼のお弁当を支給したり、飲み物を自由にしたり。 安心して働ける環境を整えることが、僕の最大の仕事です。

「自分さえ良ければいいと思うな。他人に興味を持て」。 今、そんな思いを大切に、みんなで一緒に汗を流しています。


《長野》:理不尽を知る坂野さんだからこその、重みのある言葉ですね。 本日は本当にありがとうございました。




【編集後記】

「目標を言わない経営」を、甘いと笑う人もいるだろう。 しかし、その背後には深夜まで泥まみれになり、絶望を越えてきた坂野さんの凄まじい「覚悟」がある。

理不尽な地獄で誓った「人の痛みがわかる人間になる」という思い。 それは決して綺麗事ではなく、現代における最強の生存戦略そのものだ。


「餅は餅屋」と語り、地域の仲間と手を取り合う彼の姿は、日々孤独に戦うすべての経営者に、確かな光を見せてくれるはずだ。

(長野 憲次)




アスリートの目で読む

元アスリートの視点から、この記事の読みどころをスポーツにたとえて解説します。


■ 「餅は餅屋」は投手の分業制

旋盤やフライスは地域の仲間に任せ、自社は得意な「面」の加工を極める。プロ野球が先発・中継ぎ・抑えと役割を分け、一人の投手に全部を背負わせなくなったのと同じ考え方です。坂野さんは地域全体を一つの大きな工場、つまり一つのチームと捉え、自社は自分の役割に集中しています。


(戦う経営者図鑑 編集部)

プロフィール

[坂野 允耶] 有限会社サカノ 代表取締役。高校時代は強豪校の野球部で応援団長を務める。教員経験を経て、26歳で家業を継ぐ。圧倒的な努力で売上消滅の危機を救い、33歳で社長就任。「人」を大切にする共鳴経営を実践している。


[長野 憲次] 「戦う経営者図鑑」公式インタビュアー。元プロボクサー。代表理事を務める株式会社アスリート式にて、CEOブランディングや独自のドキュメンタリー動画制作を手掛ける。




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